岩下悠子著「漣の王国」
科捜研の女や相棒でおなじみの脚本家、岩下悠子さんの「漣の王国」を読みました。
本当に小説家としてのあまりの手腕に驚き、ちゃんとご紹介したいなとブログを久しぶりに。
ただ、ちゃんと説明できるだけの語彙力を私が持ち合わせていないのと(笑)、ミステリーなので内容のことはお話したくないなと思います。
じゃあなにをするか、というと、
読んでいたときに「科捜研の女」でこんなのあったなあって思い出したことがいくつもあったんですよね。
なので、そこから類似性を見出して、小説を読んだときにこんな楽しみがあったよとご紹介させていただきたいと思います。
この本の表紙を見たときに、帯も含めて頭に浮かんだのは、科捜研の女シーズン15の第2話「見えすぎた女」のオーロラ。
”見えすぎる”能力ゆえに、それを振りかざして絵にうまく表現することができなかった女性が、最後にみた風景。大文字山の上に浮かぶ怖いくらい美しいオーロラ。
「漣の王国」はその風景を耽美でかつ流麗な言葉でその風景をひとつひとつ丁寧に表現されています。ドラマとは違う、絵の力に頼らない言葉だけの描写に心が打ち震える感覚。小説を読む醍醐味を思い出させてくれました。
そして、たとえばそのオーロラが彼女にどう見えていたのか、彼女が本当に伝えたいことはなんだったのか。
「見えすぎた女」が見たオーロラ、つまり「本物の四色型色覚者が見ていた風景」をどう表現したのかは、東映の公式HPに書いてあります。
彼女の見ていた風景を直接表現するのではなく、それを見ていた彼女の心情を想像させるように演出してくれました。まさに劇中の仙川教授のように、目に見えているものだけではなくその腹の中にあるものを表現したのです。(原文ママ)
映像作品はやはり目からの情報が一番にくる。ただの風景ではない、彼女の想いをすべて表現する絵がバーンと一面に出て、マリコさんがこう思ったんじゃないか、と言葉を添える。
その言葉が真実かは分からないけれど、科捜研の女という白か黒かはっきり答えを出して真実にたどり着くマリコさんが意外と情に厚い人間だと示しているわけですね。
「漣の王国」も命を落とす人間がいますが、どうしてその「決断」をしたのかは読み手にかなりたくされていると思います。それをひとつひとつ掬い取りたい気分にさせられるのがカタルシスになったかも。
岩下悠子さんの脚本回は、オーロラのほかに星(S17-13)や蝶(S18-6)を扱った回もあって科学を幻想的なものも多く、児童文学(S16-10)に仏像(S14-7、16-14)に盆栽(S15-15)に・・・と事件に絡む題材が幅広い印象があります。折鶴もあったような・・・。
それを魅せて美しく語る一方、出てくる人々の優しさも愚かさもさらけ出すようなギャップがあり、何がいいのか悪いのかは一切断罪もせず語らずに終わっていく…時には後味の悪いお話もあります。今回はどんな話だろう?でも見終わったあとどんな気持ちを自分は抱いているのかな…と少し期待して少し怖くなる…。同じS15の第15話「悪の枝」なんてその最たる例だと思います。
あと一番すきなのは高橋和也さんが超怪しい話(S13-8)とか、石丸謙二郎さんの見当たり操作の話も(S17-15)!化学を人間ドラマに落とし込むのがすごく巧みだなと思います。
でも結局どんな話であれ、謎が解かれていく過程を心から楽しめるのです。
小説も同じでした。ええー!!と驚いたのがほとんどですが、少し先が読めたとしてもどんな文章でどう表現されていくのかドキドキする。最後までそのモチベーションが衰えなかったです。
京都の狭いコミュニティの中で、漣のように人間の心の揺れが小さくじわじわと広がっていく話の下敷きには、仏教にキリスト教にイスラム教にとなんだかシルクロードでもめぐっているような、しかしながらその東の果てにいきついた土地でそれがつながっていくような不思議な…神秘的なものを感じるからでしょうか。
・・・あまりネタばれしたくないのですが、私は北里舞という登場人物が好きで。
彼女は想い人を「かれ」と呼ぶのよね。その言葉を選ぶ理由が、最初は安易に感じたけど、ところがどっこい!とてもせつなくて愛おしいのです。それを作品に取り入れる岩下さんの含蓄の深さに舌を巻きました。
科捜研の女と同じ京都を舞台に描かれているので、ドラマを見ている人にはぜひ読んでほしいなと思いまして、ドラマに絡めて書いてみました。おすすめです。
「コンビ萌え」に偏った私的ドラマ視聴のこれまで
Twitterに好きなものを好きだとつぶやく…。
何年か前から、すっかり私の日常の一部になってしまっています。
感想をつらつら書きなぐってるわけですけど、
そのつぶやきで共通することは「コンビ萌え」についてがっつり語っていることです。
…誰に頼まれたわけでもないのに(笑)。
気楽に言いたい放題してきたんですが、最近「萌え」って使ったところ、
「腐った目で変な妄想してるんでしょ」
「ちゃんと作品の素晴らしさを理解していない!」
「作品の良さはなによりシナリオがいいからだ」などと言われまして、
正直、あのマウント取られた感は苦痛以上の何者でもなかったのですが笑、
うーんこれって悪いことなんでしょうか?
なんでも「萌え」っていうと、穿った見方をされるの正直心外です。
私が言ってるコンビ萌えは腐女子萌えとは違う気がしますしね。
どっちの萌えにしても、それぞれ楽しんでる人の勝手だし、ほっておいてくれって話で。
コンビ萌えっていうのは必ずしも、
特定の2人に対して必ず「恋愛してくれないかしらねぇ」とは思わない。
どちらかといえば、
「くっつきそうだけど、永遠にくっつかないでほしい!」が正しい(笑)。
もっと言えば、
「互いを信じ切り、ときには思い切り(物理的 or 精神的)殴り合いもできる関係性が尊い」
だから必ずしも恋愛する必要はないんですよね。
さらにいえば、
恋愛していようがしていまいが男女なんて関係なく、
役者同士が同じ温度で芝居ができていて、常にガチンコで拮抗した関係性を見せることができれば、私の萌えは生まれているのではないか、と思うのです。
そして最終的に、萌えるかどうかは個人的な好みの問題なのですよ。
「コンビ萌え」の目覚め
そして、もうひとつ大事なのが「見栄え」です。
私が「コンビ萌え」にめざめたのは絶対これ。
夕方4時は地元の放送局はもっぱら「あぶない刑事」と「刑事貴族」を順番に再放送していて(笑)、
刑事貴族は面白かったけど、やっぱタカとユージの並びを見ただけで期待感があがる感じは独特で…あれでバディものの面白さを知りました。
対等な関係性の2人だからこそバディものは成立するわけだから、
2人の役者が常に拮抗している関係性を表現できることが重要ですよね。
そして横に並んだ姿を見るだけで「このドラマがみたい!」と思わせる画力。
これが私の言う「見栄え」ということ。
ただ単にいい男、いい女、見栄えのよい男女2人並べただけでは無理なんです。
理屈では説明できない「ケミストリー」が必要なのです。
そういや、ケミストリーに関してはこういうブログを書きました。
「見た目」のバランス
まったく形の違うパズルのピースがなぜかピッタリ合ってしまう…それがケミストリー…!!
ドラマにおいて、再三Twitterで言ってるのはこの3組、
これは今に始まった話ではありません。
そして、メインの男女2人がくっつくラブストーリーも含め、
いま思えば「見栄え」で心惹れた作品はたくさんあったなと。
私がいいなあと思うコンビとなると…
ケイゾクは完全に私の男女バディ萌えの起源ですね。
そして田村正和さん…「ニューヨーク恋物語」のダイジェストで古畑任三郎のイメージが完全にくつがえった、私にとって理想の男性!夢見がちww
でも萌えと言われると、松たか子さんとの「じんべえ」が頭に浮かぶのです。
…松たか子さんで言うと、キムタクもよいですねぇ。
横に並んで期待感が募るのは…山口智子さんが別格なので、松たか子さんだけかもね。
私はキムタクのドラマをロンバケから見続けていて、脱落したとしても絶対第1回だけ必ず見るようにしています。習慣です(笑)。
最後まで見続けられたのは最初のHEROまでなんですけど(笑)、相手役が誰なのか、それがものすごく見る側のモチベーションに関係していることに気づきました。
私はキムタクのドラマだと「ギフト」とか「眠れる森」が好きですが、コンビ萌えはない。
木村拓哉と演技の上で精神的に殴り合いしてぶつかりあって恋愛模様を見せてて、
「はぁ、お似合い♡」って思ったのは松たか子さんと常盤貴子さんあたりかな…。
やっぱうまい女優持ってきてこそ、あのスター性に太刀打ちできるんだよねー。
(ロンバケは個人的にそういう次元ではないのです)
女同士だと萌えまではいかないなー。
セーラームーンのウラネプかしら(笑)。
萌えまでいかないけど、
好きだなってコンビだと、
ですかねー。ほんとそれぞれにバランスいいですよね。
男同士でいいなぁと思うコンビだと…正直ドラマは少ないかも。
「相棒」はメイン2人に萌えを感じることが私には一切ないですね。
寺脇康文さんだったら川原和久さんだし、
なぜなのかはわからないですけど(笑)。
ここまで書いたけど、懐かしいですね…。
すごく思うのは、全部話の中身も面白かったってことです。
シナリオも演出もよかった作品ばっかり。
結構ど真ん中な作品ばかりみてきたなと思います。
だから「萌え」っていい作品だからこそできることなんじゃないかって。
バカにしてないってことだけは、伝わってほしいなー。。。
「優しさ」の意味の移り変わり
5月1日、令和の時代の幕開けに昭和の、しかも戦前に日本で演奏された洋楽を楽しむという企画「レビュー ニッポン・モダンタイムス」を観に行きました。
無事会いに来れたー‼️
— Missy (@Missy0786) 2019年5月1日
楽しみ‼️#レビュー・ニッポンモダンタイムス pic.twitter.com/gfNTXzryar
2月の宝塚OG公演「ベルサイユのばら45」で日向薫・ネッシーさんを生で見て、宝塚以外の歌をうたってるところがみたいなあ…と、思い切ってチケットを取ったのです。
大学時代に輪島裕介さんの本を読んで、戦前から戦後にかけて日本がどのように洋楽を受容していったのか…すごく面白い分野だと思っていたもので、もともと観に行きたいなとは思っていたんですけどね。
日本海側から東京へ行くのは時間がかからなくなりましたが、行く決断をするのはかなりエネルギーがいるものです。背中を押したのは学びたい気持ちよりも、大好きな人に会いたい乙女心でした(笑)。
創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史 (光文社新書)
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宝塚OGが出演する公演に遠征するようなるとは…と自分でも驚いています。
一昨年、剣幸・ウタコさんに出会うまで、宝塚を卒業したタカラジェンヌを見るのは本当にせつないものだったから。
男役から美しい女性に変わっていく姿を見るのは、夢から覚めて現実に引き戻される感覚に似ています。男役は10年以上もかけてつくり上げられますが永遠に続くものではなく、1番脂ののったときのあの輝きは刹那的なものです。だからこそ美しく儚い。
でも、ファンの心にはその美しさが一生刻まれます。忘れられないこそ、宝塚とは違うフィールドで生きるタカラジェンヌがOG公演で現役時代の持ち歌を歌うのもどこかむず痒い。どこか申し訳ない気持ちにもなる。なんて身勝手なんでしょう(笑)。
でもウタコさんに出会って考えがガラリと変わりました。
女優として歩んでこられた「今」を好きになって、その後に現役時代の映像を見たので、時を経ても変わらないものがある尊さと、現役時代からさらに今もなお進化することができる恐ろしいほどの伸びしろに(笑)心から感動したんですね。
ウタコさんの現役時代を知らないからこそ、考えが変わったと思います。宝塚が全てではない。卒業してからが長いのだと。その道筋の先にウタコさんのような歩みを止めない素晴らしい方がいた。だからこそネッシーさんの「今」が知りたいと思うこともできました。
さて、なんでこんなにネッシーさんにお熱なのか…ですが(笑)。
最初はあの極彩色のオーラにしてやられたわけですが、私が現役時代の映像で一番好きだなと感じたのはあの優しい佇まいです。
ネッシーさんが相手役さんを見つめるときのあの優しく包み込む感じがすごく好きなんですね。デュエットダンスなんて「これだけ大切にされたらたまんねぇだろうなシギちゃん…」とため息が出ます。
でもそんな甘い感じを期待して(笑)歌劇や宝塚グラフを読むと、ネッシギってすごくサバサバしたコンビなんですよね。ネッシーさんはシギちゃんに対して「しっかりした考えを持っているんですよ」とよく褒めています。奥手だけど芯の強いシギちゃんをよく理解していますよね。ふたりともお育ちがよいのだろうなぁ…。だからこそ信頼関係も生まれるし、何をやっても受け入れるよという包容力も感じることができる。一人の舞台人として、人間として尊重している姿勢が強く感じられます。
「ベルサイユのばら'89 フェルゼン編」はそういう関係性を考えるとちょっとおもしろい。フェルゼンはマリーアントワネットを唯一、ただの一人の女性として愛しているからこそ時代に引き裂かれてしまう。ネッシーさんのフェルゼンはマリーアントワネットを深く強く愛していながら、女王として死ぬことを選ぶ彼女を尊重している感じが強く出ているところが独特なんですよね。シギちゃんのマリーアントワネットは愛らしい外見とは裏腹に、毅然としてフランスの女王として死んでいく誇り高さが印象的です。死なせたくないという思いとの鬩ぎ合いがありながら、諦念が一緒に滲み出る。ネッシーさんの持ち味が活きたベルばらです。トップ時代の作品はあっさり系が多いですが、どれだけ深く愛していても、他人の人生をとやかく言えるはずはないという虚無感があるからでしょうね。
5/1のコンサート、私は「ディガ・ディガ・ドゥ」を聞きに行きました。でもなにより心を打ったのは「君微笑めば」。
すごくシンプルな歌だけど、ネッシーさんが歌うとより優しさに溢れた歌になる。微笑んで、と投げかける人間が微笑んでいてくれるから幸せが生まれるんですよね。太陽のように光り輝いて笑っていてくれるから、聞いてるこっちは本当に涙が止まらなくて……いっぱい元気をもらいました。
ネッシーさんの声って当時から優しい声でしたけど、伸びやかさが備わってより温かさがより感じられるようになってますよね。男役のときに漂っていたあの「虚無感」は、女性としての柔らかさによって「思いやり」に変わっています。いろんな曲が聞いてみたいなと思わせるパフォーマンスでした。磨きつづけてるよね……また会いに行きたいです。
宝塚における組の系譜とは
久しぶりにこの前「TCAスペシャル OGバージョン」を観ました。
大浦みずき・なつめさんと剣幸・ウタコさんみたさに買いましたが、初めて見たときは2人にしか目がいってなかったので観直してもすごく新鮮(笑)。
じっくり観ていると、いろんな発見があります。
そのなかで、月組のミーマイのあとのトークでの真琴つばさ・マミさんが姿月あさと・ずんこさんと一緒に「初演のときは組が違ったのですが、再演のメンバーだったので我々も仲間に入れてください」みたいなことをいうんですね。
このトークでは久世星佳・のんちゃんが飛び入りゲストで一緒に並んでいたから、天海祐希・ゆりちゃん以外のウタコさんからマミさんまで、歴代の月組トップスターが勢ぞろいしたわけです。
あの中にいるマミさんとずんこさんは「花組生だなあ…」と。。。
ゆりちゃんやのんちゃんがトップ時代のときはまったく感じなかったし、マミさんがトップになったときも感じなかったことなんですけど、見ていた私はあのころ小学生だったこともあるので、いま大人になってから見ると、ということです。
それでマミさんのトップ時代の作品いくつか見直したんですけど、トップになって男ぶりがあがったマミさんは相変わらずカッコよかったんだけど、ウタコさん時代の作品をみたあとでは、あの月組黄金時代の雰囲気をちゃんと受け継いだのはのんちゃんまでなんだなって。
やっぱり、ゆりちゃんとのんちゃんはウタコさんの背中を見てた人なのでね。
マミさんの次に紫吹淳・リカさんがなって、さえちゃんは星組っぽさがあるけど、そのあと瀬奈じゅん・あさこさんがなったからやっぱ花組色は強めですねぇ…。でも霧矢大夢・きりやんは不思議と月組っぽさがある人です。あと明日海りお・みりおも。これってどういう影響なんでしょうねぇ。マミさんを観てた世代だからなんですかね。
こうみてみると、系譜をかんじますね。
それで組み替えによってそれが幸か不幸か新しい組のカラーがうまれていく。
そう考えると、他の組のことも考えてみたくなります。
このOG公演を出ていた人で書き出してみましょう。
そして、星組は日向薫・ネッシーさん、麻路さき・まりこさん、稔幸・ノルさんまで揃い、娘役も毬藻えり・シギちゃんと星奈優里・ゆりちゃんがいたので、シメあやがいたら完璧!な布陣。
ネッシーさん以降のトップスターがもつ雰囲気ってその前のトップさんから引き継いだものではない気がします。
鳳蘭・ツレさんのベルばらが初舞台だったとはいえ、ネッシーさんは最初月組配属だし、芝居のときのあの軽やかさは月組味を感じます。そのまま月組生でいたとしてウタコさんと一緒に芝居してても自然に感じそう。
星組に組み替えしたころのトップだった瀬戸内美八・ルミさんのもつ雰囲気はどう考えても月組生のそれで、峰さを理さんの雰囲気もツレさんの背中を見てたからこそのゴージャスさと雪組っぽい真面目さを感じます。
あの「貴族の組」は根っからのお育ちの良さと、立ち姿の美しいネッシーさんの佇まいがあったからこそ始まって、そこにネッシーさんに負けず劣らずの紫苑ゆう・シメさんが横にいて、まりこさんというゴージャスなスターが集まったことによって確立したのだなあと。そしてそのスターの背中を見ていたノルさん、わたるさんまで続いたのかなと思います。
ノルさんの次のトップスターだった香寿たつき・タータンはどう考えても花組生なんですよね。雪組には合っていたと思いますが、星組っぽさはないかなー。
TCAの星組トークで一緒に出ていた渚あきちゃんもどう考えても花組生。マミさんの横にいるとしっくりきます。
わたるさんのあとは瞳子さん、ちえさんと続いていくわけですが、瞳子さんはやっぱり雪組だなと思います。そして、あの世代から宝塚の性質が変わってきたように思うので、あの「貴族の組」とはもう別物ですね。
花組ってそう考えると強固ですね。
ダンスの花組を体現したのはなつめさんですが、なつめさんは雪組と星組を経験していて、その前のペイさんも組み替えが多い人なので、いま思う花組のカラーってそのころにつくられたものなのかなと。順みつきさんの「霧深きエルベ〜」観たことがあるんですが、私が思う花組とは少し違っていました。
ペイさんは汀夏子・ジュンコさんや麻実れい・ターコさんの横にいるのみたことあるんですが、風合いは雪組。でもセンスのある軽妙洒脱な独特のスターなので、新しい花組を作ったのはペイさんで、それになつめさんが続いて自分の個性を打ち出したって感じを受けます。
そして安寿ミラ・ヤンさん、真矢みき・ミキちゃん、愛華みれ・タモさん…と続くわけですね。
それでもあの花組の雰囲気があるのは春野寿美礼・オサさんと蘭寿とむ・まゆさんまでかな。
真飛聖・ゆうさんはあまり花組色はなかった印象ですね。みりおは前述の通り月組っぽいし。
雪組はどうなんでしょうねー。私は轟悠・いしちゃん以降、壮さんあたりまでちゃんとよく観ていないのでよくわかりませんが、ジュンコさんから続いていた男のドラマを描くことに長けているあの骨太感はいしちゃんあたりで終わったのではないでしょうか。
そのあとの絵麻緒ゆう・ぶんちゃんはどう考えても星組生だし、そのあとの朝海ひかる・コムちゃんは元花組生だし、その前に宙組時代もあるし。そして水夏希・みずさんは組み替えも多いし独自性が強い人なのであまり組のカラーはそこまで感じないかなと思います。音月桂ちゃんは水さんと同じ雰囲気があるし、ちぎちゃんはその系譜の人かな。壮さんとちぎちゃんのあとの望海風斗・だいもんは花組生らしさをもったトップですね。
ひとつひとつ考えていくと、その組のカラーっていうのはその時代のトップスターの個性によって作られている気がします。そこで下級生時代を過ごしたスターは他の組でトップになるとその影響を受けてそのカラーを受け継ぐか、自分の持ち味を生かして個性を出すか、そのどちらかなのですね。
そう思うと、80年代のトップって圧倒的だなと思います。
特になつめさんの2000年代まで続く凄まじき影響力よ…。
18シーズンを終えて
10月から始まった「科捜研の女」18シーズンがたった1クールで終了してしまいましたね。
来年なにを楽しみに生きれば、とか思ってたら、土門さんが卒業してしまうかもしれないという急展開。
科捜研の女ファンは戸惑いのなか年を越す事態に。
しかしながら、土門さんが「俺がいなくても大丈夫そうだな」なんて言ったからなのか、最終回は今シーズン最高の視聴率。
前のシーズンまでだと、どもマリを意識した話だからと言って視聴率にはあまり関係なかった印象なんですけど、今シーズンは3話「土門刑事の女」が2番めに高い視聴率だったようですので、これは顕著だなと思います。
それで最終回がこれなので、どもマリを揺さぶれば視聴率が上がると証明してしまったようなものです。
これもやはりね、「どもマリ」をみる視聴者が増えて、このカップリングが公式認定されたおかげかなと思うんですよね。
だからこの2人の関係性にメスを入れられたのは必然だったのかなと。
信頼のみでつながれた絆は続くのか否か
さて、私はこのインタビュー記事を読んで、沢口靖子さんと内藤剛志さんがそれぞれに、マリコさんと土門さんが男と女の関係にならないからこそ面白いのだとおっしゃってくださったことにいたく感動しました。
なぜなら、仕事上の関係なのに誰よりも強固な絆でむすばれている男女。
でも、信頼だけでなりたっている絆だから恋愛に進展しない。
だからこそ、見ているこっちは張り裂けそうなくらいせつなくてじれったい。
これは幾度となくTwitterで何年も垂れ流し、このブログでも書いてきたどもマリの私的見解です。
やっぱり制作側は意図的にやっていたんだ!と確信を持てました。
ただね、ドラマをどう続けていきたいかは沢口さんが語っているけど、
どもマリのこのじれったい関係をずっと続けるかどうかは書いてないんですよね。
正月スペシャルはどんなラストが待っているんでしょうか。
私は最終話の放映前にこんなツイートをしました。
土門さんとマリコさんがずっと一緒に捜査してくれたら、私どれだけマンネリ化してもそれでいいと思ってます。ただ、今回のシーズン見てて、もうこの2人で何か大きな事件っていうのはもう手詰まりなのかも、とも思いました。もうお互いの信頼はマックス。何があっても揺らがないので。#科捜研の女
— Missy (@Missy0786) 2018年12月13日
マリコさんと土門さんがいまの関係を続けている限り「変化」は訪れません。
私は18シーズンをみていて、どもマリの萌えポイントばっかり探していました。
ちょっと粗探しに近いなとも感じていて、これをマンネリというのかな、とも。
でもそう思うってことは、2人に劇的なドラマは生まれないということを自覚している現れでもありますよね。
だから、ここで土門さん卒業かも?!と揺さぶりをかけることで、結果はどちらにせよ、マリコさんと土門さんの関係にはなにかしらの「変化」があるのかな、と。
こうなるとさ、第3話の「土門刑事の女」放映当時は「やっぱりこの2人は恋愛には発展しないんだな」とがっくり来るくらい突きつけられたと思ったけど(笑)、今思えば2人の関係に揺さぶりをかけた話だったかも、と。
正月スペシャルまで、徹底的にどもマリを考えたいところです。
出逢いから萌えははじまっているーーどもマリを愉しむ③
さて、科捜研の女の第18シーズンがはじまりましたね。
どんなどもマリが見れるかしら、と思っていたら、
次の3話が!公式がどもマリ萌えを仕掛けてきましたよ(笑)!
革ジャン時代の土門さんの過去が語られるということで、こりゃ黙ってらんねぇなと(笑)。
なので、第5シーズンをここで掘り下げたいなと思います。
1話目のスペシャル以外はなかなか再放送がないので、
まだ未視聴の方は、BS・CS・地方局の再放送枠を逃さないように!!
第5シーズンは土門さんとマリコさんの「なれそめ」
それぞれの部署で扱いづらいと思われている2人が、ぶつかり合いながらお互いを認め合うまでのお話です。
マリコさんにまったく色気がないし、土門さんはまったくマリコさんを女性扱いしないので、究極の異性間ブロマンス!
マリコさんはとにかくクールビューティな女王様。
若さゆえに尖ってて、アメリカ帰りの才女!設定が効いていて
自分を全く疑わないというか……誇りを持っているんですよね。
自分が科学的に出した答えに絶対的な自信があって、本当に現実に起こったのかどうかを確かめているような感じです。
そして、同僚に対して愛がないですね(笑)。
いまは一緒に仕事をする仲間として、できるってわかってるからこその振り回し方をしますが、
昔は顎で使っている感じ。日野さんや乾くんがブーブー言ってるシーンが多々あります(笑)。
土門さんは革ジャンでドロップ缶を持ち歩く、関西弁の癖がありすぎる粗暴な刑事。
ガラが悪すぎる(笑)。
荷物が風呂敷とかに包んでて、いでたちがどこか寅さん的なんだよね。
「〜ですなぁ」みたいな口調でちょっとおじさん感があるんだけど、
マリコさんとのやりとりはちょっと子供っぽいし、
捜査のときにはエネルギッシュで若々しいので、
キャラ設定が少しいびつな感じがしますね。
問題起こして所轄に行ってまた府警に戻ってきた土門さん。
なぜまた府警に来れたのかというと、佐久間刑事部長が検挙率を上げるために連れてきたためのよう。
マリコさんとの初対面では「(科捜研なんて)京都府警には無駄な部署があるんですなぁ」というので、科学の力なんてまったくアテにしていないのです。
いまの絶対的な信頼関係を思うと、本当に新鮮(笑)。
でもめっちゃくちゃ距離が近いよー!!
2人とも若いので、彼氏彼女感があります。
現場検証でもいまだと横に並んでいるけど
マリコさんの真後ろから顔突っ込んでるので、抱き合ってるようにみえるシーンとかね(笑)。
これはスーツ姿じゃなくて、革ジャンで粗暴な刑事だからこそありえたんだろうな。
あと、夫婦だと装ったシーンがあったりして、今とは違う気恥ずかしさがあるんですよねー。
マリコさんも捜査で外に出ているときや土門さんの前だとちょいちょい関西弁が出て、
「なんや、お前も関西か」って笑う土門さんはとってもキュート!
粗野な物言いの土門さんに一歩も引かず、自分の検査結果を武器にぶつかっていく捜査していくマリコさんなので、土門さんとマリコさんは完全に対等です。
で、私が好きなのは7話。
土門さんが大ピンチな話ので、弱気になっちゃう土門さんが見れるお話です。
シーズン5の7話はどもマリの源泉といってもいいかも。土門さんが初めてマリコさんを真に認める話だからね。このころは土門さんキャラ違って、最後はマリコさんと大阪弁でやりとりするところが最高だったなー。#科捜研の女 pic.twitter.com/rHH6madXsA
— Missy (@Missy0786) 2017年2月24日
マリコさんを認めることは、科学の力を信じるということです。
そして無機質に思える科学が、人を救うさまを目の当たりにした。
なんとなーく協力しあってきたけど、明確な信頼関係が生まれた瞬間でした。
そのあと、妹の美貴ちゃんにマリコさんとの仲を聞かれて「あいつは戦友だ」というわけです。
8話と最終話はマリコさんが窮地に陥る話ですが、土門さんはマリコさんを「自分で答えを見つける女だ」と信頼した上で協力します。セコム的役割もちゃんと発動しており、どもマリの在りようはすでに構築されていることがわかります。
そしてすでにブロマンス的な要素もあり、当時からすでに意図的であったということも(笑)
第5シーズンの私的などもマリの萌えポイントは、
マリコさんを挑発するような言い方やそぶりをする土門さんと、一歩も引かないマリコさんとのやりとりは痛快!
でもこれは女扱いしていたら、土門さんは同じことをしないでしょう。
ビジネス上の関係だから一切容赦がなく、信頼だけで結ばれる。
若さゆえに恋愛関係に発展するかもしれない可能性を感じさせるので、
この時点では危うく映ります。
いまは年を重ねたので、危うさの種類は変わった気がします。
人間、そんな白黒はっきりつけられるものでしょうか。
お互い、大切な相手には間違いないわけですよ。
男と女の関係ではないだけで、事件によってはプライベートな部分にふみこむ場合もあるし、
作品が現実と同じ時の流れなのだったら、13年は一緒にいるんだからなおさらです。
ほかの相手に色目を使われたらちょっと面白くない。
そういう感情があるのではないか……それを妄想するのがどもマリの楽しみです。
でも最近のシーズンでは、それを明確に描いていますね。
16シーズンの3話、マリコさんが前夫とよりを戻すのではとみんなに疑われる話は、まさにそれです。
そして、マリコさんも最近そういう感情ではないかと思うようなシーンがあります。
これもたしか16シーズンだったかな。
最後のシーン、いろんなことを考えさせられる。土門さんがマリコさんを肯定するのは基本は信頼から。でも最後のマリコさんの表情をみると、情感があるよね。マリコさんにも土門さんへの感情のなにかがあるってことかなぁ。#科捜研の女 pic.twitter.com/cOroyItS01
— Missy (@Missy0786) 2017年2月23日
マリコさんの、不器用に優しい言葉をかける土門さんへの視線。
とても余白のある演出・演技だと思います。
今日の夜、土門さんの過去が描かれますが、
マリコさんはどんな感情をのぞかせてくれるんでしょうか。
男役という枠が外れたとき②――宝塚卒業後の歩みを考える
久しぶりの更新。
かなり前ですが、こんなブログを書いて思春期のころから持っていたもやもやとした気持ちを整理しました。
↑のブログ記事は姿月あさと・ずんこさんが好きになって、
卒業後ちょっと気持ちが離れて、
また出会ったときに宝塚のスターだったときとは違う
「一人の歌い手」としてのずんこさんが大好きになったという話です。
ですが、また違うところで思うところがあって、
でもその気持ちを言語化することが難しく、
気がつけば半年くらいの時間が経っていました。
やっと言葉にできそうなので、つらつらと書いていきます。
スターとはなんぞや
私は去年の秋頃くらいに突然北翔海莉・みっちゃんが好きになりまして(笑)。
宙組の3番手時代からの彼女を見ていなかったので、
難しい役をとにかくこなす器用な男役というイメージが強く、
特に専科時代の作品には驚かされました。
特に「メリー・ウィドウ」と「エリザベート」は本当に素晴らしかったですよね。
それで「この人正統派スターだったんだ!」と感動したのがきっかけ。
ただ、私は同じくらい妃海風・ふーちゃんも好きになったもので、
卒業後はどちらかといえば彼女のほうを追いかけていたものだから、
あまりみっちゃんの卒業後の動きは追えていませんでした。
で、あるときいつも聞いている「たまむすび」というラジオ番組で、
ニッキ・錦織一清が自らが演出する「蘭」という作品のエピソードを語っていました
そして、出演者のひとりである、みっちゃん・北翔海莉の話が出たのです。
ちょっと書き起こしてみました。
「北翔海莉さんはなんでもできる人だって聞いてて本当にそうだった。で、かっこよかったのは男役トップスターだったからね、スターって背中なのよ。颯爽と歩くその後ろ姿っていうのかな。バックダンサーとしてトシちゃんやマッチのようなスターの背中を見てきたからね、スターの背中って大きくて颯爽としてかっこいいのよ。それと同じ背中がそこにあったの!」
宝塚OGっていうのは、やっぱりそういうことを求められるんだなあ……と。
幼い自分であれば、私はそれを肯定的に受け止めていたと思います。
これはニッキとみっちゃんが悪いわけではないのですが、思い切って大阪まで見に行こうかなと思っていた気持ちを削ぐくらいの衝撃はありました。
ふーちゃんが「江戸は燃えているか」で娘役とはまったく違う、力強い女性を演じていた姿を生で見たあとだったので、同じようなチャレンジをするみっちゃんが見たかったのですよ。
「パジャマゲーム」に間に合っていればなと思わずにはいられません。
宝塚から離れて、自分の道を歩んでいくOGの姿を見つめることは、少しの切なさを含みます。でも、それを上回るほどの楽しさがあるのだと知ってしまった今の私では……。
ここで浮かんだのがジャニーズの舞台。
ニッキもずっと少年隊として「PLAYZONE」という舞台に立ち続けた人です。
早替えやら、フライングやら、階段から落ちたり、激しい殺陣をしたり…限界まで舞台で命を燃やすスターがエンターテイメントとして昇華する。
主役は集客力のあるスターだとしても、今後芽が出るであろう後輩が脇をかためる成長の場でもあります。
これはとても宝塚に似ていると思うのです。
舞台に挑む姿も含めて頑張る生徒の姿に、私達は感動しているのだから。
もちろん、役になりきった姿をみて役者として花開いた瞬間に感動することもあります。
でもそういう舞台はどちらかというと「役」ではなくて、「スター」が重要。
その人がいかに魅力的なのか、いかにその人の存在感で舞台を支配するのか。
私はそういう舞台を否定はしません。SHOCK見に行って感動しましたし(笑)。
でも、宝塚OGにそれを求めるのは、個人的にちょっとした罪悪感が湧きます。
本人がそれを望んでいるのなら仕方がない話ですが、
それは宝塚時代からのファンのためだけに存在することになります。
宝塚以外のミュージカルやストレートプレイなどの舞台ではニーズがありませんよね。
特に、男役を引きずっていたらなおさら仕事は減るんじゃないでしょうか。
宝塚からホップステップジャンプどころじゃない「やばいタカラジェンヌ」に出会う
ただ、宝塚を引きずらずにさっさとステキな女性になっていくのは、ちょっとした寂しさが伴うんですよね。
私の場合はずんこさんでした。
卒業後を追えなくなった私のようなファンは少なくないのではないでしょうか。
他のOGファンでも、スターではなくなった後もずっと応援するってよっぽど熱烈なファンだろうし、宝塚の舞台に立っているスターが好きだったのだから、心が離れてしまうのは仕方がないんじゃないかと思います。 だって別物なんだもの。
だからいかに自分を突き通して新しいファンを獲得していくか……それが重要なんでしょうね。
宝塚時代のファンが去っても、新たな魅力で新しいファンが増えていけば問題ないもの。
みっちゃんはその岐路に立たされているんだろうなあ。
今の私はちょっと成長したので(笑)、新たな面をみせてくれたら嬉しいなと思うんです。
さて、私は昨年剣幸・ウタコさんに出会います。
存在は知っていたけれど、麗人のDVDで「歌うたいのバラッド」を歌うウタコさんを観てドツボに……。
すごく凛として、タカラジェンヌっぽさはあるけれど、
とっても女性として美しい人ですよね。
だからすごく歌が旨くて存在感のある人だなとは思ったんですけど、
最初はホントにピンと来なかったんです(笑)。
そして、宝塚100周年DVDでミーマイの歌を歌い継ぐウタミミが大好きになって。
いまのウタコさんを好きになったので、最後に月組トップスター時代の作品をみたわけです。
そのときに「あ、本当に男役だったんだなー」と変な感慨がありました……(笑)。
今と昔のウタコさんを見て、いい意味で宝塚で培ったものを昇華していて、それを私が無理なく受け入れられている自分がいました。
でも、それが実現しているってすごいことだと思うんです。
ものすごく大変な作業だったのではと思うのですよ。
男役・娘役としての「型」を極めて卒業したあとは、お芝居や歌、ダンスの基本的なスキルはそのままに、ウタコさんでさえ、その型だけは外さなければならなかったはずです。
たとえば歌だったら女性のキーに戻したり、ファルセットではない歌い方を身につける必要があると思います。ウタコさんは在団中とっても低い素敵な声でしたけど、いますごく透明感のあるお声ですよね。私には考え付かないような努力を積み重ねていらっしゃったんだろうな・・・と思います。
宝塚でもほかの舞台でも、お芝居で大切なこと、歌を伝えることの難しさなどは一緒のはずです。宝塚でやってきたことはもちろんムダじゃない、尊いことです。
でも、男役と娘役はやはり、宝塚でしか成立しないもの。
そこを切り離して一からスタートしていくしかないわけですね。
この前の逸翁コンサートに行って思ったのは、男役として活躍してらっしゃった姿が蘇ってくる尊さがもちろんあり、これまでのキャリアで培われた女優としての表現力が相まって、宝塚ファンもいまのウタコさんファンがみても満足できる内容だったということ。
横に寄り添うこだま愛・ミミさんがまた素晴らしくてね……。いつまでも男役さんは素敵って思ってくださるプロフェッショナルな娘役らしさを失わないでいてくれるのに、ウタコさんが女優さんとしてもひとりの女性としてもすごく素敵で尊敬できる存在なんだってことも同時に伝えてくれます。
そしてなにより、ミミさんも歩みをとめず進化し続ける素晴らしい人です。
宝塚時代も、それ以後の歩みもどちらとも大切にしていて、それがそのまま芸に現れている方々に出会えて本当に嬉しかったな……。
ウタコさんにしても、ずんこさんにしても、いまとなっては現役時代以上の素晴らしい表現者になっています。ずんこさんから心が離れても、ずっと舞台にいてくださったということ。それでまた好きになれたことが嬉しかった。
私はそこまでぞっこんラブにはなれないので、何回もそれを繰り返すと思います。みっちゃんに対してもそうでしょう。
でもわかったことは、スターが卒業していくことはそんな悲しいことじゃないってこと。もっと素晴らしい世界がひらけていること。
ウタコさんの舞台作品、絶対に生で観たいなと思います。
本当に時は有限だからね……お金また貯めよう……。