男役という枠が外れたとき――ファンが選ぶのは「別れ」か「新しい愉しみ」か
去年、こんなことをつぶやきました。
宝塚の良さとはと聞かれたのでこう答えました。
— Missy (@Missy0786) 2017年10月9日
儚さだと思う。10年くらいかけて男を磨いた男役に胸を躍らせる楽しさ。でも彼女たちは退団して女性に戻っていく。刹那の美なんですよ。でも心には一生焼きつくけどね。
我ながらいいこと言ったなと思ったので書き留めておく。
それで、このツイートを見た方がDMを送ってくださってこう聞かれました。
「別れをどう乗り越えてきたんですか」と。
私は明確に答えられなかった。
そして気づく、私は乗り越えたことなどなかったと。
悲しいのにそれを認めず、なんとなく次のトップスターを応援する。
ましてや、宝塚を卒業したタカラジェンヌをちゃんと卒業後も応援し続けるだなんて、私は中途半端に投げ出したんだから。
それを私はいま、心の底から後悔しているのだけれど。
卒業後も変わらずファンを続ける尊さを知る
いつか生で観たいと思ってた剣幸・ウタコさんとこだま愛・ミミさん、そして未沙のえる・マヤさんのコンサートに行ってきました。弾丸で大阪!
笑いの絶えないトークが最高で、しかしながらすばらしい内容で感動の連続。
こんな多幸感を味わったことはありませんでした。
スキップでもしそうなくらいハッピーになってホールを出ようと席を立つと、ファンの方々がハンカチで涙を拭いている姿がちらほら。
「泣きすぎちゃったわ」って微笑んでる姿がとても印象的でした。
卒業して時間が経っても、瞬時に乙女心を呼び覚ます宝塚の尊さ。
そして、なにより現役時代の映像で見たより芸の幅が広がっている素晴らしさ。
現役時代から、卒業してから、とファンになるスタートラインはそれぞれでしょうが、これまで歩んでこられた過程を舞台を通してご存知なのだったら、それはこの上ない贅沢なのだと思い知らされたのです。
好きでい続けるのは難しい
宝塚が大好きになったきっかけはTVで見た「風と共に去りぬ」。天海祐希・ゆりちゃんと久世星佳・のんちゃんが大好きになった作品。ビデオが擦り切れるくらい見ました。
でも1人のタカラジェンヌに心奪われたのは、姿月あさと・ずんこさんだと思います。
月組に組替えしてから知りましたが、ゆりちゃんと仲睦まじい様子は微笑ましかったし、中学生になってから「TAKARAZUKA オーレ」の「夜霧のモンパルナス」を聴いてから目が離せなくなって、歌一つで物語全てを語ってしまうようなタカラジェンヌがいるのだと、完全にオチちゃったのです。
宙組ができてからもずっと好きだったけど、あっという間にずんこさんは宝塚を去って行ってしまった。
あまりにも清々しく行ってしまったから、寂しいと思えるほどの実感がなかったけど、この本を読んで、素のずんこさんを知って、少しうれしくて少し寂しかった。
本当に体を休めて欲しいと、そしてまた歌って欲しいと願いながら。
ずんこさんが歌う姿は、ハネケンさんが司会をやってた時代の「題名のない音楽会」でよくお見かけしていました。なかでも「ニューヨーク・ニューヨーク」は本当に忘れられない、素晴らしい歌唱。
あと、クラシックもよく歌ってましたよね。ずんこさんが歌ったシューベルトの「魔王」はあまりにも有名ですし、奥田瑛二の演技とかけあいながら「カルメン」かなにか歌ってたような…あれもすごいパフォーマンスだった。
個人的には、前に朗々とした歌声がドミンゴのようだって表現した誰かの文章を読んだ覚えがあるんですけど、「誰も寝てはならぬ」を歌っているのを聞いて「ああ、ドミンゴみたいって言われてた人が本当にオペラ・アリアを歌ってるよ…」と感動しました。
きっと歌を徹底的に学んで、いろんな引き出しをつくろうとしていたんだろうって思うんですよね。
でもそんなこと関係なく、ここまでは圧倒的な歌唱力を楽しめたからついていけてたんだろう、と思います。
その後、ずんこさんが「スタジオパークからこんにちは」にご出演された時、相変わらず徹底的に飾らない人だなって思いましたが(笑)「男とか女とかそんなこと関係ないと思うんです」と語ってたのをみてからよくわからなくなってしまったんですよね。
性別なんて関係ないところで楽しんでたくせにね(笑)。
中村雅俊さんの「ふれあい」を歌っていたと思うんですけど、いま聴いたら違うことを感じたと思うんです。
「ああ、ずんこさんは歌手としてまた違うベクトルへ進んでいこうとしているんだな」ということだけはわかったのだけど……。OG公演もなんだか気もそぞろにになってしまって、ついていけなくなったのはそのときだったんだろうと思います。
再会はこのアルバムです。
ずんこさんのデビュー30周年記念の作品。
これの「最後のダンス」を聞いて、すごい境地に達している!と衝撃を受けました。
そしたらスルスルって他の曲も楽しく聴けました。
このアルバムの発売を記念したインストア イベントのレポートに
「姿月あさとはかねてより、自分の声を楽器の一つとしてとらえており、歌詞の意味以上に、自分の歌声がいかにバックの演奏と溶け込むかということを重視……」という一文がありましたが、それがどういうことなのかがわかるんですね。
今思い返せば、あのとき聞いた「ふれあい」はそういうことだったんだって思うんです。
歌詞はちゃんと伝わらなければならない。でもその歌詞の意味をなぞる以上の、その奥にあるなにかを伝えたかったのではないかって。
ずんこさんが表現したいと思っている世界を理解するには、その当時の私はあまりにも子どもでした。
無理して好きでいる必要はないでしょう。無理せずにすこし距離を置いて、いまずんこさんの歌にまた触れて、「好きだ」といま私が思えたというだけ。
なんであそこで投げ出したんだろうって切なくもなるんですけど、なんだか嬉しかった。少しは追いつけたかな、と。
多少ブランクができたくらいなんだ、今からでも遅くない。
時は有限です。いまを見なければあっという間に過ぎ去ってわからないままになるだけ。いまからでも、ずんこさんがこれからどんなことを感じて、どんな歌を紡ぐのか。それを自分なりの早さで、距離感で見つめるべきだと。
ただ、いま私が好きな「コンビ萌え」はずんこさんにはないんですよね。ここにはまた違った複雑な思いがあります。
ここはまたの機会に考えをまとめたいですねー。